最近神社好き。でも神は信じない。だからお祈りも賽銭もしないバチ当たり者。で、何してる?

| コメント(0) | トラックバック(0)
歳のせいなのか?最近神社によく行きます。それも有名なところではなく、できれば近所の人しか知らないような、ひっそりとした神社が良かったりする。寺よりも神社の方が「感じる」ものがある。なぜだろう?

■「感じる」神社がときどきある

 ここ数年、僕は良く、神社に足を運ぶようになった。
 最初にそれを自覚したのは、もう4~5年前だと思う。少なくともエリーゼを買う前であった。
 会社に行く途中、少し遠回りすると、東京の下町風の住宅地の狭間に、神社と言うより祠と言った方が良いような神社があった。
 一応、一段上がるようになってはいるが、上がればもう、そこが行ける一番奥であり、そこが二礼二拍手一礼する場所である。そのくらい小さい。
 しかし、そこには何となく惹かれるものがあり、朝、何となくそこを通らなければいけないような気になってしまい、通ればやはり入ってしまう。

 そんな場所を、当時見つけたのだ。僕は決して信心深い方ではない。いや、神を信じていない。

 で、だ。
 話はもう少しさかのぼる。多分、10年くらい前だと思う。

 僕の自宅の近くに、凄い「感じる」場所があるのだ。それが、また神社なのである。
 僕は決して霊感とか、強い方ではないし、そもそも霊とかそんなものは信じていない。見たことももちろんない。(鬼火は一度だけあるが。あれは科学的に証明されているし、それだと思う)

 それは僕のランニングコースの近くにあるのだが、近づくと一気に鳥肌が立つ。そこも決して大きな神社ではないが、そこに生えている木が2本あり、それが非常に高くそびえている。これがとにかくその「気」を放っている。
 僕が走るのは主に夜だが、夜空に向かって黒くその2本の木が黒く浮かび上がっている様が遠くからも確認できる。仕事の帰り道でも見える。

 それを見ると、何となく安心する。
 しかし、近づくと鳥肌が立つ。

 だが、怖くはない。自分に害を与えるようなものではないと思うし、僕はなぜか引き寄せられるように夜の神社に入って行った記憶がある。これがその神社とのファーストコンタクトだ。

 ちなみに今も、走った時には必ずここに寄る。もう、ルーティーンと化している。

 毎日ではないが、それでももう10年になるから、結構な回数足を運んでいると思う。

 なお、神社であればどこでも良いのかと言うとそうではない。そのような行きたくなる、引き寄せられるような神社はそうはないし、鳥肌が立つようなものとなればほとんどない。
 4~5年前に会社の近くでその神社と出会ったときは、自宅近くの神社の時ほどではないものの、それに近い何かを感じていた。

 仕事も結構キツイときだったので、会社の近くにあって良かった、と思ったものだ。


■神社に行くが、いわゆる「お祈り」はしない

 少々驚かれるかもしれないが、僕はかなりの回数神社に足を運んでいるが、いわゆる先ほど言った二礼二拍手一礼といった行為はしていない。賽銭も入れていない。

 なぜか。
 理由は簡単、僕は神など信じていない。当然、何かをお願いしたりもしない。当然、お賽銭も入れていない。

このバチ当たりめが!

 そうか?神を信じていないのだからバチも当たるまい。
 もちろん、こんなところでお願いしても、叶うはずはない。期待もしていない。

 もし、神社に通い詰めて、願いが叶ったと言いたい人がいるなら、僕は言いたい。それは神様が助けてくれたのではない。これだけ通ったのだから叶うはず、と言う自分が自分を信じる心が醸成され、その結果、自らの力で叶えたのである。僕はそう思う。だから凄いのは自分。自分を褒めろよ!

 夢は、自分自身で叶えるものだ。できたその瞬間がイメージできればできる。僕はそう考えている。
 これは結構難しくて、口で「できる」と言ってもダメだ。心のどこかで「でも、ムリだよな」って思っていたら、それはムリだ。疑いもなく信じる、信じ切る。信じる強さでもない。ガチガチになって信じ切ろうとするのは、実は自分にウソをついているからだろう。むしろ「そうなるに決まってんだろ」くらいに軽く思えるくらいの方が夢は叶う気がする。

 それはまぁ、良い。じゃぁ、僕は神社に行って何をしているのか。

 「報告と宣言」である。

 自分の持っている夢に対して、「今回ここまで行った。次はここを目指すんだぜ」そう心の中でつぶやいている。ですます調でさえ、ない。ここは確かに、一般の人は神の住まう場所なのかもしれないが、僕はそこで誰かに頼みごとをしているわけではないからだ。信じられるのは自分のみ。

 おまけに僕は、走ったときに神社に寄った場合には「今日も自分に勝った!」と言いながら神社の敷地内に入っていく。どうだ、すげぇだろ!って感じだ。誰も褒めてくれないから自分で自分を褒める。この場所ならそれができるってわけだ。

 エキシージを買いたいと思っていたときは動画でも言ってたように手帳に写真を入れたけど、神社でも「エキシージ買うぜ」って言ってた。結果はエリーゼになったけど。



 何かを感じたり、鳥肌が立ったりする理由は良く分からないが、なぜかそうした「演出」がなされる場所の方が成功をイメージして、より強く自分を信じられる。

 つまりは、僕にとってそういう風に自分自身をさらけ出して真実のままを報告し、次の目標を宣言できる場所がたまたま神社だっただけであって、この先その様な場所出てきたとしても、次はそれが便所かも知れないし、ゴミ捨て場かも知れない。それだけのことだ。


■神社は自らを見直す壮大な装置

 神社だけじゃないが、寺や教会も含めて、そうした宗教的な場所と言うのは、そうした神聖なる空気を持たせることによって、人の心を開かせ、自らを客観的に見る、そして反省する気持ちにさせる、壮大な装置なのではなかろうか。

 自分を良く見せたい、良い人に思われたい、欲深い所を見られたくない...。人は自分の心を自ら発したノイズでジャミングしてその素性を人に悟られまいとして生きている。それを取り除くには、神と言う存在だったり、罰と言う制裁だったり、そうしたSF的なものを事実のように見せる神社や寺や教会と言ったハコモノを用意して、そうしたジャミングを取り除ける装置を用意した。

 宗教も初めはそこだったんじゃないかな、なんて勝手に想像している。
 世の中を良くするためには自ら発しているノイズを限りなく失くし、本当の自分をさらけ出すこと。

 本当は自分はどうなりたいのか?それを素直に確認できる場所。

 僕は悪いことをしました、本当は謝りたいんです、と思えばいずれそうできるし、金持ちになりたいのならそうなるはずである。ただそれは神様がしてくれたのではなくて、そうやって祈ることで「できる」と信じ切った自分がやっていることなのだ、と。

 で、その装置の作りなのだが、これも人をその気にさせるのに一役買っていると思う。僕は、寺より神社の方が「来る」ものがあるね。理由は良く分からんけど。

 神社の方が建物の屋根の下とかの彫刻とかが細かい気がするんだけど、自分の行ったことのある寺と神社がたまたまそうなだけかな?詳しいわけではないので知らないが僕は何となくそんな気がする。

 そう言えば先日浅草寺に行ったけど、浅草寺は特に何も感じなかったけど、脇にある浅草神社はちょっと良かったね。だから寺は素通りするけど、浅草神社は「報告と宣言」してしまった。これは好みの問題かと思う。ただここも、屋根の下の梁や柱は浅草寺は朱色いだけで平らだけど、浅草神社は色々な彫刻があって手が込んでいるな、って思った。

 しかしまぁ、こうして神社とかによく足を運ぶようになるというのは歳をとった証拠なんですかねぇ。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.wolfkai.com/mt/mt-tb.cgi/215

コメントする

ウェブページ

2020年11月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

アーカイブ

アイテム

  • today180_20200920_bat-cover.jpg
  • kyuyu.jpg
  • kamisato_sa.jpg
  • ueda_jutai.jpg
  • ueda_ic.jpg
  • ueda.jpg
  • saikido.jpg
  • 415km.jpg
  • u_poi.jpg
  • r146.jpg